『はやく逃げなさい、アンジェ!』
燃え盛る炎が、ちりちりと髪を焦がす。
必死な表情で逃げろと促す両親の声を聞きながら。
今まで感じたこともない炎の熱さと、少しずつ、こちらにせまってくる、異形の物の姿に、逃げなくてはと思いながらも、足は一歩も動かなかった。
異形のものは、怯えて動けない獲物をじっくりといたぶるつもりなのか、焦る様子もなくゆっくりとこちらへと近づいてくる。
しゅるり。しゅるり。
植物の蔓のような腕を床に這わせながら、耳障りな音が徐々に大きくなってくる。
『…ゃ…ぁ…ぁ…!』
怖くて、怖くて。
けれども、それから目をそらせることもできなくて。目に見えて、大きく震える足が、ついに力を失って、床に膝をつく。
『アンジェ!』
ほとんど悲鳴に近い両親の声を聞きながら。
気がつけば、異形の物はもうすぐ、目前に迫っていた。
ゆっくりと、獲物に狙いを定め、ソレが触手を大きく持ち上げる。
その瞬間、どこが顔かすらも分からない、それが。
確かに、ニヤリ――と笑ったような気がした。
たすけて。たすけて。たすけて。だれか。だれか。
『――っ、女王さま…っ!』
死の覚悟を決めて。目を閉じた瞬間。咄嗟に出たのは。
アルカディアを救ってくれると。幼いときから聞かされ続けていた至高の存在の名で。
しかし。
次の瞬間、予想していた痛みはなく。
「…?」
感じたのは、自身によりかかるものの重さと、頬を伝う、ぬるりと熱い何かで。
『よかった…アンジェ』
不思議に思い、目を開けると、そこにあったのは、優しく微笑む、父と母の顔で。
『パパ…、ママ…』
2人に抱きしめられているのだと気付いた瞬間。心からの安堵が広がる。
そのまま、ぎゅっと抱きつこうとした瞬間。
ドンッ!
思いもよらず、自分を強く突き飛ばしたのは、父の手で。
『パパ…?』
状況を理解できず、突き飛ばされ、尻餅をついたままの姿で、呼びかける。
『アンジェ…。ずっとずっと、あなたを愛しているわ』
『幸せに、なりなさい。私たちの――』
『――――いやああああああああ!!!』
優しく微笑む、父と母。
その背後で、再び異形の生き物がその触手を勢いよく振りおろす姿が見えた。
飛び散る、赤。
その鮮やかな赤を見ながら、不意に気がついた。
先ほど、頬を伝った温かいもの。その正体。
あれは、自身をかばって傷をおった、両親の――。
『やだあああああああ!パパ、ママああああ!!』
  ※      ※      ※
「アンジェ!アンジェ!」
「――っ!」
目を開けると、そこには自身を心配そうに見つめる翡翠の瞳があった。
「…ベル…ナール…兄さん…?どうして……?」
まだ混乱した頭で、ようやくその名を呟くと、ほっとしたように柔らかく微笑んで頭を撫でてくれる。
「もう”兄さん”じゃないよ、僕の可愛い奥さん。…まだ少し寝ぼけているのかな?」
気持ちをほぐすように、優しく頭を撫でられるうちに、ようやく落ち着いてくる。
…そうだ。
ここは、あの、炎の海の中ではない。
どこよりも安心できる、愛しい人と暮らす、場所なのだ。
「起こしてしまってごめんね。ひどくうなされていたものだから、心配になって」
「…いえ、起こしてもらえてよかったです。ひどく、怖い夢を見ていたから…」
「アンジェ…」
言った瞬間。ベルナールの顔がくもるのが分かった。これ以上心配をかけたくなくて、慌てて笑顔をつくる。
「でも、目が覚めたらなんの夢だったかも忘れちゃいました!…だから大丈夫です。ベルナールさん、明日も早いんでしょう?私のほうこそ、起こしちゃってごめんなさい」
「馬鹿だな、アンジェ…」
言ってギュッと強く抱きしめられる。
優しい、温もり。
幼い頃から、幾度この温もりに救われてきたか分からない。
「僕が、君の嘘を見抜けないとでも思ってるの?駄目だよ、君が無理をしていることぐらい、すぐ分かるんだから」
「……っ」
オーブハンターとして、過ごした日々の中で、たくさんの出逢いを経験し、痛み、喜びを知って。
たくさんの辛い戦いを乗りこえて、平和なアルカディアでの日々を、勝ち取ることができた今。
ようやく、1人でも胸をはって、歩いていけるくらいの強さを手に入れたと思っていたのに。
「ど…して、わかっちゃうんですか…」
――…この人の前では、一瞬で。こんなにも弱く、脆い、何もできなかった頃の「小さなアンジェ」に戻ってしまう。
「ベルナールさんは、ずるいです…」
拗ねたように呟くと、宥めるようなキスが、優しく額に落ちてくる。
「…ね、アンジェ。話してほしい。君が抱えていること、全部。どんな小さな不安も、痛みも。自分1人では抱え込まないでほしいんだ」
瞼に、頬に、落ちてくる、羽のように優しい口付けと、言葉に。
胸の奥で凝り固まっていた黒いものが、柔らかく融けていく。
ほうっと、小さく息をつくと、乞われるがままに、ポツリ、ポツリと語り出す。
「…小さな頃の…夢を見たんです…」
「うん…」
「…両親が…タナトスに襲われたときの…」
「………」
覚束ない言葉に、ただ静かに、抱きしめながら耳を傾けてくれる。
その温もりに、確かに支えてもらっていることを感じながら、言葉を紡いでいく。
「……私はただ震えているだけで…。何もできなくて…。女王様に助けを求めているだけだった…」
「…アンジェ」
「2人が、タナトスに襲われて倒れるその瞬間さえ、何もできなくて!ただ、泣き叫ぶことしかできなくて…!」
言いながら感情が高ぶって、涙が溢れてくる。
自分1人助かったあの日から、幾度となく繰り返してきた痛みを伴う後悔。
アルカディアが平和になった今でも、消えることのなかった、思い。
「私が…『女王の卵』だったのに!」
他の誰でもない、自分が「女王の卵」だった。2人を救う力を持っていた、唯一の存在だったというのに。
あの時、何もできなかった。何も、しなかった。
だから、2人は死んだ。死んでしまった。
2人だけではない。
もっと早くこの力に目覚めていれば、救えた命は、もっとたくさんあったはずだ。
「…っ、私が…私のせいで…っ!」
続く言葉は、嗚咽で言葉にならなかった。
それまで、黙って頭を撫でてくれていたベルナールが、静かに口を開いたのは、その時だった。
「…それは違うよ、アンジェ」
「…っ!」
「以前、君に言ったよね。『君は、女王の卵なんて名前じゃない。君は、君だ』って。覚えているかい?」
「…はい」
忘れる、筈ない。
頑張って、はやく平和を取り戻さなくてはと、ピリピリと張り詰めていたとき。ただの「アンジェ」として心配してくれる、彼の言葉が、あの時どんなに支えになったか分からない。
「「女王の卵」としての君は、頑張りすぎなくらい頑張っていて、正直、見ている方が痛々しいくらいだった。それでも君は投げ出さず、諦めず、最後まで希望を失わず、真っ直ぐに前を向いて進み続けた」
静かに、けれど確かな強さをもって、語る声。その眼は真っ直ぐにアンジェに向けられており、その眼差しに宿る温かな光は、昔とかわらず、温かく。
「そんな君を誇らしいと思ったよ。すごいと思った。けれどね、それでも君は、君なんだ、アンジェ」
「…っ」
「手だって、体だって、僕の腕の中にすっぽりとおさまってしまう。あの頃よりはずっと綺麗なレディになったとはいえ、「女王の卵」なんかじゃない。君は、1人の、守られて然るべき、僕にとって、誰よりも愛しい女の子だ」
「兄さん…」
静かに降り注ぐ声に、新たな涙がこみ上げてくる。その涙を拭う手も、どこまでも優しく、止めようにも止められなくなる。
「…それにね。君が何もできなかったなんて、そんなことない。そんなはずない。こんな小さな手で。体で。君がたくさんたくさん、頑張ってきたことを知っているよ」
どこまでも、凪いだ声に。
心の奥深くに突き刺さっていた鋭い氷が、少しずつ、融けていく。
「救えなかったことを後悔するよりも、君のおかげで、今も笑顔で暮らせている人がたくさんたくさんいるんだってことを、どうか忘れないで。……君のパパとママも、きっとそう願っていると思うよ」
静かに降り注ぐ声。
それに、幼い日の記憶が重なる。
『こんなに、小さな体で、よく頑張ったね…』
両親を目の前で亡くしたショックから、感情を麻痺させていた幼い日の自分。
そんな自分を抱きしめて、自分よりずっと大きなお兄さんが、声をあげて泣くものだから、ひどく吃驚したことを覚えている。
けれど、彼がそうやってかわりに泣いてくれたから、両親を失ってはじめて。声をあげて泣くことができた。
今までずっと忘れていた記憶。
けれど、あれは、あのお兄さんは。
「……私を救ってくれるのは、いつもベルナールさんなんですね…」
「ん?」
泣き笑いの表情で小さく呟いた言葉は、どうやらベルナールの耳には届かなかったらしく。
不思議そうな表情でこちらをのぞきこんでくる。
幼いときから、かわらず見守り続けてくれる、愛しい人。
長年胸の奥に抱えていた後悔。
まだ、痛みは完全に消えてはいないけれど。
この人が傍にいてくれるなら、きっと、いつかは。
「…ベルナールさん」
「なんだい?」
「前に、言いましたよね。パパとママの分まで、私を愛してくれるって。世界で一番幸せな女の子にしてくれるって」
ふふっといたずらっぽく微笑んで、大切な秘め事を話すように。そっとその耳元で囁く。
「…今、私、世界で一番幸せです。…ベルナールさんは?」
吃驚したようにその翡翠の瞳が見開かれた後。蕩けそうな笑顔を向けられて。
ゆっくりと、落ちてきた唇の温もり。
言葉よりも雄弁なその答えを受けながら。
――きっと、幸せに、なりなさい。
――誰よりも愛しい、私たちの天使。
閉じた瞼の裏に、微笑む、両親の姿を見た気がした――。
 
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| ネオアンジェリークSS | 01:25 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |