彼のことを、好きになればなる程不安になる。

 

彼の些細な言葉や仕草にさえ、色んなことを勘ぐって。イライラして、不安になって、泣きたくなって。

 

はじめ、それは小さな種のような物だった。

それがいつの間にか、胸の奥深くに植えつけられていて。

いつ芽を出したのかも分からぬままに。

気がついたときには深く、深く根付いてしまっていた。

 

その植物を、何と名づけたらよいものか。

 

際限なく伸び続ける蔓に、雁字搦めに囚われて。

今では、身動きすらもままならない。

 

あまりにも不安定な感情。

 

本当は、もうとうに。

その感情の名を、知っている。

知っているからこそ、認めたくない。

認めたその瞬間にでも。

決して抜け出すことの出来ない、深みへと陥ってしまいそうな気がして。

 

――いや。

 

本当は。

もうとっくに、抜け出せないところまで来てしまっているのだろう。

だから。こんなにも、苦しい。

 

時折、思う。

 

すべてなかったことにすれば、楽になれるのだろうかと。

 

今更そんなこと出来るわけがないと、一番良く知っているのは他ならぬ自分自身だ。

 

もしも今。彼が、自分から離れて行ってしまったら。

 

そう思うだけで、凍りつき、粉々に砕かれそうになる心。

なのに。

それでも猶、思わずにはいられないのは何故だろう。

 

もし、この恋を白紙に戻せたなら。

この煩わしい感情もなくなるのではないかと。

 

※ ※ ※

 

「どうした?」

 

放課後の練習室。

いつものように、バイオリンの練習をしていた香穂子は、突如耳元で聞こえてきた土浦の声に、弾かれるように顔を上げた。

バイオリンを構えたまま、いつの間にかボンヤリとしていたらしい。予想していた以上に近くにあった彼の顔の思わず息をのむ。

 

「な、何が?」

「今日はやけに大人しいじゃないか」

「そうかな?」

「ああ。まさか、熱でもあるんじゃないだろうな」

 

からかうような口調。けれど眼差しは真剣そのもので。そのまま自然な所作で、大きな手のひらを額に当てられる。

触れ合ったところから伝わる温もり。

馴れないその感覚に、自分の顔が急速に熱を帯びるのが分かった。

それを誤魔化すように、慌てて声を絞り出す。

 

「だ、大丈夫だよ!」

「そうか?…あんまり根詰めすぎんなよ」

 

本当に心配していてくれるのだと、ありありと分かるような…労りのこもった声。

嬉しいはずなのに胸の奥がチリリと痛んだ。

 

――最近、頻繁にこんなことがある。

彼の優しさに触れるたびに、混在する嬉しさと切なさ。

矛盾する、二つの感情。

その、理由。

 

「ちょっと休憩しようぜ」

 

長い綺麗な指で、ポンポンと悪戯に鍵盤を叩きながら問いかけてくる。

 

「なんかリクエストあるか?」

「え?」

 

予想外の言葉に思わず声をあげる。

 

「それじゃ土浦君の休憩には…」

 

ならないじゃない。

 

そう言おうとして、楽しそうに輝いている瞳にかち合った。

時折見せてくれる、子どものように無邪気な彼のこんな表情に。香穂子はひどく弱い。

 

「なんでもいいの?」

「ああ」

 

即座に返ってくる答え。

その自信たっぷりな様が、少しだけ憎らしいと同時に誇らしくもある。

 

「…えっと…じゃあ…『楽しみを求う心』」

 

すると土浦は一瞬、意外そうに目を見張り――そして微笑んだ。

 

「マイケル・ナイマンか。――OK」

 

ポーン…と一つ。

高い音が響いたのを合図に、長い指が、何のよどみも無く鍵盤の上を滑りだす。

切なくも情熱的なメロディが狭い室内に響き渡る。

柔らかな音色に全身が包まれるのを感じながら、香穂子はそっと目を閉じた。

 

広がる――色彩豊かな、世界。
 

この、「彼」だけが作り出せる、情熱を秘めた鮮やかな世界が、香穂子は好きだった。

 

けれど。コンクールが終わり、こうして共に過ごす時間が当たり前になってから、こんなふうに彼の音に触れるたび、喜びと同時に、常にはなりを顰めている不安が、首をもたげるようになった。

 

――そのきっかけは、些細なことだった。

 

『ね、香穂子は土浦君に何ていって告白されたの?』

 

ある日の放課後、恋愛話で盛り上がっていたのだろう。会話の輪には加わらず、急いで練習室に向かおうとしていた香穂子は、クラスメイトのからの唐突な質問に思わず足を止めていた。

 

『頬を染めて告白する土浦君なんて、想像できないって皆言うんだよね。あ、それとも告白は香穂子からだったの?』

 

学内コンクール入賞者同士のカップルということで、大勢の好奇の目が向けられたのは当然といえば当然のことであった。

 

――しかし、香穂子はその質問に答えることができなかった。

 

言われて、初めて気がついたのだ。

 

コンクールが終わって、恋人同士と周知の関係となった土浦と香穂子。だが、その実、2人の関係を決定付ける明確な言葉は、今まで一度だって互いの口から出たことはなかったことに。

 

あの日、コンクールが終わった後。香穂子は思いの丈をこめて愛の挨拶を奏でた。それに気づいた土浦が、屋上まで急いで駆けつけてくれて。笑顔を見せてくれたときは、本当に嬉しかった。

けれど、「好き」の一言を彼は聞かせてくれなかった。それは、香穂子も同じで。

 

…もしかして、付き合っている気になって、舞い上がっていたのは自分1人だけだったのだろうか。

 

気づいた瞬間、愕然として、思わずその場に膝をつきそうになった。クラスメイトたちの期待する視線に耐え切れなくなった香穂子は、その質問に曖昧に微笑んだだけで、逃げるように教室を後にしたのだった。

 

その不安が、確信に変わったのは、そのすぐ後のことだった。

 

土浦が同じサッカー部の友人たちと会話しているのを偶然、立ち聞きをしてしまった。その会話の中で、彼ははっきり言ったのだ。

 

『土浦〜、お前はいいよなー。寂しいときはいつも側で支えてくれる彼女がいるんだからさ』

『…あいつはそんなんじゃない』

 

…ポーン…

 

最後の旋律が、柔らかく余韻を残して響き渡った。

それを合図に、香穂子もまた夢想から覚め、ハッと顔を上げる。

 

鍵盤から顔を上げた土浦の視線が、香穂子とかち合い、柔らかく細められる。

 

「土浦君…」

 

愛おしいものを見つめるかのようなその笑顔に、また、勘違いしそうになる。

 

もう、分かっている。これは、友人に対しての笑顔だ。優しい人だから。誰よりも優しい人だから。いつまでも香穂子があぶなっかしいのを見て、手を差し伸べてくれていたのだろう。そこに特別な感情などなにもなかったというのに。

それなのに浅ましく期待して。側にいて。

 

自分はなんて、愚かだったのだろう。

 

ポスン。

 

軽い音がして、香穂子は無意識に土浦の背中に顔を埋めていた。

今まで終わりを告げるのが怖くて先送りにしてしまっていたけれど、これ以上彼を好きになる前に。

手放すなら「今」しかない。そう思った。

 

「香穂…?」

 

戸惑ったような、彼の声。密着しているせいで、その振動が伝わってくる。

 

――でも、顔は上げない。

 

今きっと、すごく醜い顔をしている。そんな顔は、見せたくないから。

だからそのままで、彼に告げる。

 

「土浦君……今までありがとう…」

「え?」

 

突然の、要領を得ない言葉。

意味を図りかねて、彼が戸惑っている様子が伝わってくる。

それでも今を逃したら、またずるずると今のままの関係を続けてしまう。そう思ったから、かまわずに、香穂子は言葉を続ける。

 

「土浦君は優しいから…私がいつまでも危なっかしいのを見ていられなくて、手をひいていてくれたんだと思うけど…でも、もう自由になっていいんだよ」

「お前、何言って…」

「私も、こんなんじゃ、いつまでたっても土浦君に甘えちゃう。だからそろそろ頑張ってひとり立ちしなきゃ。それに私がずっと側にいたら、土浦君彼女1人つくることもできないでしょ。せっかくもてるんだから、勿体無いよ。だから、ね」

「香穂!!」

 

常にない口調で強く名前を呼ばれ、思わず言葉を止め、ビクリと体をこわばらす。

いつの間にか香穂子の方に向き直った土浦に、至近距離で両肩を掴まれる。

咄嗟に見上げた彼の表情は、今まで見たこともないほど苦しげに歪んでいて。

自分が彼にそんな顔をさせているのかと思うと、意味もなく泣きたくなってくる。

 

「お前、何を言ってるんだ。…俺と別れたいって、そういうことなのか…?」

「何…言って…最初から付き合ってなんか…いないじゃない…?」

 

返ってきたのは予想外の彼の言葉で、何が何だか分からずにしどろもどろに言葉を繋ぐ。

 

「………」

「…だって、好きだって、言ってくれたことない…。私のこと、「彼女なんかじゃない」って、言ってたじゃない…っっ!」

 

言っているうちに、気持ちが高ぶってきて、ボロボロと涙が零れた。せめて最後くらいは「いい女」で終わらせたかったのに、格好悪い。

 

「何…?」

虚を突かれたような顔をする土浦に、涙交じりの声で、叫ぶ。

「佐々木君たちに…言ってた…じゃない…!教室で…」

「って、…お前、あの時の会話、聞いてたのか…」

「…っ」

 

肯定と取れる土浦の言葉に、ゆるゆると絶望が押し寄せる。

…ああ、やっぱり私は、土浦君にとって「彼女」なんかじゃなかったんだ。

 

「…もう、離して…っ」

 

耐え切れず、しゃくり上げながら、土浦の手から逃れようと暴れる香穂子を、宥めるように、大きな手が髪を撫でる。そしてそのまま、その手が背に回ったかと思うと、息も出来ないくらいの強さで、強く抱きしめられた。

 

「…っ」

「…悪い。不安に、させたんだな…」

「土浦く…」

 

熱い吐息が、耳朶をくすぐる。

好きな人から与えられたはじめての熱に、頭の中が真っ白になる。

 

「あの時の会話はそういう意味じゃなかったんだ。『寂しい時はいつも側で支えてくれる彼女』。俺と、お前の関係はそんな一方的なものなんかじゃなくて。どちらが欠けてもいけない。互いに支えあっているんだと、そう言いたかっただけなんだ」

「…え…」

「俺の言葉が足りなかったのが悪かったんだ。…悪い。もう、1人で泣かせたりなんかしないから、だから、こっちを向いてくれないか」

 

常にない、弱々しい彼の呼びかけに、恐る恐る、涙でグチャグチャになった顔をあげる。

 

「…ひどい、顔でしょ?」

「…いや、可愛い」

 

言ってから恥ずかしくなったのだろう。思わず目を逸らして頬を染める土浦の姿に、クスリと笑いがこぼれる。

そんな香穂子の様子に、土浦もまた、ほっとしたように表情を緩めた。

 

「やっと笑ったな。…香穂、いいか、こんなこと、滅多に言わないからよく聞けよ」

「……」

 

言って、そっと香穂子を抱きしめていた腕を緩めると、真剣な表情で向かい合う。香穂子も息を詰めて居住まいを正す。

 

「…お前が、好きだ」

「…っ」

 

そっと、囁くように。噛み締めるように、落とされた、言葉。

瞬間。呼吸が止まる。

 

幸せで。幸せで。クラリと眩暈がする。

 

「好きでいて…いいの?」

「いてくれ」

 

間髪空けずに告げられて。

 

「頼む…」

 

再び、背中に回された、大きな手のひら。

息も出来ない程の強さで抱きしめられる。

温もりと一緒に伝わってくる、微かな震えにに、泣きそうになる。

どうしようもなく溢れてくる、愛おしさ。

 

「うん…」

 

頷いた拍子に、堪えていた涙が再びあふれ出した。

そしてふいに思い出す。

彼の言葉。

 

――コンクールは終わったけど……終わらせたくないものもあるよな。そう思わないか?

 

あれは、最終コレクション直前のこと。

しっかり目線を合わせ、穏やかな笑みを湛えて告げてくれた。

その眼差しを、言葉を。

信じられなかったのは、他ならぬ自分自身だ。

 

…けれどまだ、遅くはないと。この温もりが教えてくれた。

 

「ありがとう…」

 

呟くと、瞼に、頬に、額に降り注いでくる、温もり。

 

――彼を好きでい続ける限り。きっと、これからも、不安な気持ちはなくなったりはしないけれど。

 

「…ね、土浦君。もう1曲、リクエストしてもよいかな」

「ああ、かまわないぜ」

「じゃあね…」

 

「「愛の挨拶」」

 

2人、重なった声に、視線を見交わして微笑みあう。

満ちる想いに感じる幸せ。

 

大切なものは確かにここにあると、今なら信じられるから。

 

不安も痛みもすべて抱きしめて。

 

――希う。

 

終わることのなく、続いていく――輝ける想いを。

| コルダSS | 02:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

放課後の、森の広場。
下校を告げるチャイムの音に、時がたつのも忘れて練習に没頭していた月森は、ゆっくりと弓を下ろし、空を仰いだ。
燃えるような茜色から、徐々に深い藍へととけていくその美しさに、軽く目を細める。

卯月も終わりに近づいた夕暮れは、まだほんの少し、肌寒い。

頬を撫でていく冷たい風に軽く肩をすくめると、月森は手馴れた仕草でヴァイオリンを片付け始めた。
弓を緩めた後、柔らかい布で、松脂を丁寧にふき取る。
幼い時から、数え切れないほど繰り返してきた、一連の作業を無駄の無い動きでテキパキとこなしていく。
しかし。
ヴァイオリンと弓をケースに仕舞い込み、後は楽譜を鞄に入れるのみ…となった段階で、突如その動きがピタリと止まった。

そしてそのまま視線を屋上の入り口へと巡らせると、じっと、近づいてくる予感に耳を澄ませる。
さわさわと風に優しく揺れる、梢の音。
寝床へと帰る鳥たちの声。
帰路に着く生徒たちの喧騒。
それらに混じって、小さく。だが、確かに聴こえる軽やかな足音。

気付いた瞬間から、どうしようもなく、胸が、高鳴る。
どうして足音だけでわかってしまうのだろう。
間違いない。
彼女だ。

すると、幾分も待たずその扉を開き、姿を現したのは。

「香穂子…」

「月森君!よかったー。まだ帰ってなくて」

予想と違わない人物の訪れに、自身で意識しないままに、月森の口元が柔らかく笑む。

「どうしたんだ?下校のチャイムはもう鳴ったと思うが。何か忘れ物でも?」
「ううん、月森君をね、探してたの」
「俺を?」
「うん。もう今日は会えないかもって思ってたから、見つけられてよかった」

そう言ってふんわりと微笑む姿に、条件反射のようにトクンと大きく胸が高鳴る。

「はい、お誕生日おめでとう!」
「…え?」

勢いよく目の前に差し出された綺麗にラッピングされたモノと、発せられた言葉の意味とが瞬時には結びつかず、思わず戸惑った声が、月森の口から零れた。

「これを…俺に?」
「うん!」

ようやく状況を把握した月森の言葉に返るのは、満面の香穂子の笑顔。

「本当はね。もっと早くに渡そうと思ってたんだけど、なかなかタイミングが合わなくて」
「……ありがとう」

正直、今の今まで自分が今日誕生日だということも忘れていた月森である。
自身の誕生日を祝うという行為に、特別の思いいれがあるわけではなかったが、それでも。彼女がこうして自分のことを考えて、何かしてくれようとした。その心遣いが嬉しくて。…何よりも、愛しくて。
胸にゆるゆると満ちていく歓びに、素直に心からの言葉が零れ落ちた。

「あの、それでね、私、去年の月森君の誕生日は、何もお祝いできなかったでしょう?」
「いや、でもそれは…」

去年の月森の誕生日は、まだ出逢ってもいなかった。だから香穂子がそれを祝えなくても当然のことであったのだが。

「うん、でもね。去年の私の誕生日は、月森君、お祝いしてくれたでしょう?だから、私も何かしたかったなあ…って思って…」
「香穂子…」
「それでね、去年のプレゼントとして、月森君に『なんでもわがままを言っていい券』をプレゼントしようと思うのです!」

そう言って、先ほどのプレゼントに加え、更にずいと目の前に突き出されたものに、思わず絶句する。

『何でもわがままを言える券』

と、書かれた、五枚綴りのそれは、どうやら香穂子のお手製らしく。
カラフルにサインペンで装飾されていた。
……まるで小さな子供が、父親に贈る「肩たたき券」のような仕様のソレを。
反射的に受け取ったはよいものの、どうしてよいか分からず、途方にくれるばかりの月森を。
香穂子はしてやったとばかりにニコニコ見つめてくる。

「私、月森君の口から、音楽以外のことで、あれが欲しいとかこれがしたいとか、そんな類の言葉、聴いたことない気がするんだよね」
「…………」
「でも、ね。せっかくのお誕生日なんだし、私に出来ることだったら、何でも叶えてあげたい。……ね、何か欲しいものとか、して欲しいこととかない?」

…音楽以外のことで。
我儘を。
香穂子に。

……元来、音楽以外の特定のモノに対し、驚くほど執着心の薄い月森である。
急に望みを言えと言われても、すぐさま浮かんでくる筈もなく。

結果…ただただ、渋面になって黙り込んでしまうばかりである。

「ほーら、また眉間に皺!」

そんな月森の眉間に。
香穂子の指先が、羽のように軽く触れたかと思うと、すぐに離れていった。
驚いて顔をあげると、そこにあったのは、心底楽しそうな香穂子の笑みで。

その、あまりにも楽しそうなその様子に。
何だか小難しく考えていた自分がひどく滑稽に思えてきて。

ふっ、と。
月森の口角も思わず緩む。

……本当に、言ってもいいのだろうか。
我が儘に、想いの儘に、願うこと。

「――香穂子」
「ん?」

 息を吸いこみ。
 …ゆっくりと。

 彼にとって特別の意味を持つ、愛しい名を呼ぶ。

「……本当に、言ってもいいのだろうか」
「!!…うん、勿論!私にできることなら!」

その言葉に、ぱあっと華の咲いたような綺麗な微笑みを浮かべた香穂子の姿に、眩しげに眼を細める。

「いや、これは――君にしか、叶えられないことなんだ」

生まれて初めて。こんなにも強く求めることを知った。

「……もし良ければ――俺の、名前を呼んでくれないか…?」

吐息と共に、密やかに。
囁かれた言葉は、すぐさま悪戯な風に攫われて。とけていく。

それでも、香穂子の耳には届いたらしく。
不意打ちをくらったように、目を大きく見開いて。
徐々に頬を真っ赤に染めゆくその姿。

そうして。
真っ赤な顔のまま、酸欠状態の魚のように「あー」だとか「うー」だとか言いながら、口をパクパクさせている香穂子の様子が愛しくて、思わず笑みがこぼれる。
 
しばらくそうしていた香穂子であったものの、やがて。意を決したようにきっと顔をあげると、ツカツカと歩み寄ってくる。
そして、月森の胸元のシャツを握ったかと思うと。ぐいっと力を入れて引き寄せられる。


同じ高さで交わる、目線。


潤んだその瞳に、見とれたのは、一瞬。
それが、ふっと逸らされて。
首筋に、ぽふっと、顔を埋められたかと思うと。

「……っ、蓮…くん……」
「……っ」

唐突に、耳元に落とされた響き。それは。

「大好き……」
「香…」
「…生まれてきてくれて、ありがとう……」

……心の奥深くまで染み入る。
どこまでも、甘く、美しい旋律で。


 くらり、と眩暈を覚え。

「……っ…………、ありがとう」

 掠れた声でつぶやくと。
 ぴくり、と震える小さな体を。
 躊躇のない力で。
 強く、強く、腕の中に閉じ込める。


 苦しいだろうと思うけれど、今は、手加減できそうになかった。


 いつも、いつでも。


 茜色に染まり行く空が、美しいということ。
 喜びと共に、笑顔は自然と浮かんでくるのだということ。
 一人よりも二人で。
 共に見る景色は、こんなにも、色鮮やかだということ。

「当たり前」の感情の揺れを、次々と、引き出していってくれた、かけがえのないひと。

「………好きだよ、本当に―――君を。心から――」

 何かを、希うこと。希求。
 我儘に。我が儘に、望みの儘に、生きること。

 ただ一つ。
 願うことを、赦されるのならば。
 
 ―――……それは、きっと。

 ―――君と、これからも歩む、未来。

| コルダSS | 02:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

加地、誕生日おめでとう…!

ってことで、何とか12日に書きはじめることが出来ました…!

続きにSSでも…!
眠さで推敲できてないので、朝起きて冷静になったら消してる気がします…(笑)

| コルダSS | 23:18 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

『amoroso(愛情に満ちて)』

少しずつ秋も深まってきたこの頃、屋上から
見下ろせるグラウンドの木々も紅く色づきはじめている。あともう少ししたら、寒さで外での練習は、出来なくなるのだろうな…と、ぼんやりと考えながら、ベンチに腰掛け、ヴァイオリンの調弦をしていた香穂子は、背後からの突然の呼びかけに、思わずビクリと肩を跳ね上げた。

「香穂さん?ごめん、驚かせちゃったかな。考え事してた?」

振り返って見ると、そこにたっていたのは、この秋から香穂子が正式に「御付き合い」とやらを始めたばかりの、同じクラスの加地葵その人で。

大げさなリアクションをしてしまったことに、頬を染めながらも、会えたことが嬉しくて、笑顔が零れる。

「加地君。ごめんね、校庭を見てたら、もう秋なんだなーと思って。ちょっとぼんやりしてただけなの」
「ああ、ホントだ。少しずつ、葉に赤みが増してきたね。もう10月か…、月日がたつのはあっという間だね。」

そう言いながら近づいてきた加地は、まるでそこが定位置だと言わんばかりに、自然な動作で香穂子の隣に腰掛ける。

その途端、間近でふわりと鼻腔をくすぐった加地の甘いフレグランスの香りに、トクンと胸が高鳴る。
…そっと見上げて見れば、学校中の女子が羨望の眼差しを向ける、整いすぎた美貌の主が蕩けそうな笑顔で自分を見つめていて。

これに加えて、勉強もよく出来て、運動神経も抜群だというのだから、恐ろしい。
天は二物を与えずとは、誰が言い出したのかと、彼に比べ、すべてが月並みな自分の、一体どこを好きになってくれたんだろうと、ついつい後ろ向きな思いが、首をもたげてくる。

本当に、こんな人が自分の恋人だというのが、今でも信じられない思いで、そっと溜息をつく。

「香穂さん?」

しかし、香穂子の変化には人一倍敏感な加地が、それに気がつかないはずはなく。
心配そうな表情でのぞき込んできた加地に、どろどろとした醜い感情を悟られたくなくて、慌てて笑顔で首を振る。

「ううん、なんでもない!それよりどうしたの?加地君?もしかして、探してくれてた?」
「ああ…いや…うん…」

言って、それきり、視線を泳がせて、黙り込んでしまう。いつもの彼らしくない歯切れの悪い様子を不思議に思いながらも。

「……加地君?」
「…あ、ごめん。なんでもないよ」

問いかけてみれば、柔らかく微笑んではぐらかされる。

「ね、それよりさ、練習は今休憩中かな?それなら、香穂さん。しりとりしない?」
「え・・・?う、うん・・・」
「ありがとう」

強引にそらされた話題に戸惑いながらも頷けば、輝かんばかりの笑顔が返ってくる。

「だけど、ただやるだけじゃ面白くないよね?負けた方が、勝った方の言うことを聞くようにしようか?」
「・・・っ!?」

その笑顔が、ひどくドス黒く見えたのは、おそらく香穂子の気のせいではないであろう・・・。


そしてそのまま、唐突なるしりとり合戦が始まった訳なのだが・・・。


「ほら、香穂さん。次は「す」だよ?」
「うううう・・・」

数分後。

流石、読書が趣味というだけあって。語彙の豊富な加地によって、あっと言う間に形勢不利な状況にたたされていた。

「す、スメタナ!」
「・・・茄子。 ふふ、また「す」だね。香穂さん」
「ええええ…!!」

スキー、スイス、すかい○ーく、寿司、酢飯、鈴虫、砂、スープ、スナメリ・・・。

もうおよそ、「す」のつく言葉は使い尽くしている。

もはや、敗北は目に見えていた。

・・・しかしここで負けてしまったら、加地のことだ。一体どんな難題を言い出すかわからない。

半泣き状態で、それでも苦し紛れに言葉を紬出す。

「す、す、す・・・好き!」

すると、その次の瞬間。
唇にふわりと落ちてきた温もりに、香穂子の目は点になった。

今、一体、何が・・・。

「・・・・・・・」

しかし、惚けている間もなく。
にこやかな加地に、容赦なく現実に引き戻される。

「ほら、香穂さん」
「・・・・・・え?」
「しっかりして。しりとり。まだ続行中でしょ?」
「え、ええ?」
「ほら、香穂さん、「す」で始まる言葉は?」

にやり、と常の彼では決して浮かべることのない類の微笑をもってして、続きを促され。

その様に、ようやく彼の言わんとしていることを理解した香穂子の顔が、瞬時に真っ赤に染まる。

好き――――…その次に続く言葉。「き」で始まるもの。
そして、今の彼の行動…――――それはつまり。
――――「キス」。

「かかかっかかか…っ!!!」
「かかかか?」
「あの、か、か、加地君っ!…私…っ。その、降参!降参します!!」
「…うん?どうして?」
「だって、もう「す」で始まる言葉なんて思いつかないし!」

恥ずかしすぎて、頭が沸騰しそうだ。
今の自分は、顔のみならず、耳まで熱くなってしまっていることだろう。こんな状態で、続きなんてできるはずもない。

必死の思いで首をふる香穂子を他所に、あくまで上機嫌な様子で加地は首を傾げて見せる。

「そうだね…」

しばし、思案するように、頤に手をあて悩むそぶりをみせる加地の様子に、何だかとんでもなく嫌な予感を覚えながら、じりじりと身を引いていると、笑顔のまま、逃さないとばかりに加地の手が腰に添えられる。

「そうだ、じゃあ、特別ルールを設けることにしようか?」
「へ?」
「今から一度言った言葉でも、使用してもいいようにしようよ」
「ええ!?それじゃあ、ずっと勝負がつかないよ!?」
「ふふっ、そうだね」
「あ、あのう…?」

困惑顔の香穂子を楽しそうにニコニコと横目で見やっている加地の笑顔に、ヨコシマな何かを感じ取ってしまうのは、自身が勘ぐりすぎなのだろうか?
そんな香穂子のとまどいを知ってか知らずか、無邪気に加地はしりとりの続行を促してくる。

「ね、香穂さん。「す」で始まる言葉は?」

言って、ついと親指の腹で唇をなぞられる。
思わず見返した加地の艶っぽい眼差しに、ゾクリと背筋があわ立つ。

「加、加地く…」
「――香穂さん」

そのまま、香穂子の唇から指を離したかと思うと、今度はそれを自身の口元へと運んでいき、柔らかく口付ける。そして、視線はこちらを熱く見つめたまま。吐息交じり。色気たっぷりに名を呼び、と促された、その瞬間。
 
――――今から一度言った言葉でも、使用してもいいようにしようか。

先ほどの不可解なやり取りの意味を、香穂子は正しく頭で理解した。
――そう、つまり、再び、言わせようとしているのだ。
加地は、香穂子に、あの言葉を。

――すでに自身が、加地の術中にまんまと嵌ってしまっていることに気づいたときには、時既に遅く。

「〜〜〜〜っっ!」

ただただ、この甘い責め苦から逃れたくて。
恥ずかしいとか、ここが屋上であるとか。そんな諸問題は、香穂子の飽和した頭からはすっかり抜け落ちていた。

「………っ、す、好き!!」

色気もなにもあったものじゃなく。思わず、意気込んで悲鳴のように叫んだ途端。

「…っ!」

唇に落ちてくる、掠めるような、羽のような口付け。

先ほどのそれとは違い、離れていく瞬間に、軽く上唇を甘噛みされ、ゾクリと肌があわ立つ。
その胸締め付けられるような柔らかな触れ合いに。先程まで感じていた戸惑いなど、どこかへ飛んで行ってしまう。
触れてはすぐに離れた温もりに、物足りなさを感じてもう一度。

「…………好…き…」

目を閉じて。
それでも、羞恥心から思わず囁くように呟けば。
加地がそれを聞き逃すはずもなく。
また一つ。すぐさま落ちてくる、熱。
そのふわふわと、心地よいに感覚に浮かされながら。

「好き…」

繰り返し、呟けば。

「好き……んっ…」
 
間髪いれずに降り注ぐ、狂おしいほどの、熱。

「…僕も、ね…」

そして、幾度目かの口付けの合間に、吐息とともに、伝えられた加地の言葉は。

「君が、大好きだよ…んっ…」

ひどく、甘く切なくて。

思わず見開いた瞳の向こうに見えた加地が、ひどく痛みを堪えているような顔で笑ってみえたから。
彼の胸元を掴んでいた震える両手を、おそるおそる、そっとその広い背に回し。

「……本当にね。一番、大好きだよ、加地君」

そのまま、ぎゅっと抱きしめて、思いをこめて、歌うように呟けば。
骨がきしむほど強く、抱きしめ返される。

普段は壊れ物でも扱うように、そっと触れてくる加地とは違い、離すまいと、まるで縋るように抱きしめてくる。
痛みよりも、胸締め付けるような愛しさに、香穂子の瞳からホロリと、涙が流れた。
その真珠の一粒さえも逃さないとばかりに、加地の唇が、柔らかな頬をすべって受け止める。

「…時々、思うんだ。いつか、君が僕の手の届かないところへ行ってしまうんじゃないかって」
「…そんなこと…」

押さえていた想いを吐露するかのように語られる声は、かすかにふるえていて。
常とは違う、ひどく危うい様子の加地に、香穂子は思わず勢いよく顔を上げる。

そこにあったのは、苦しさをたたえた、彼の表情で。胸が、強く締め付けられる。

「時々、真っ黒な夢をみる。君が、僕の前から去ってしまう夢を」
「………」
「君に出逢えたこと、それ自体が夢なんじゃないかって」
「・・・どう・・・したの?加地君。何か、あった…?」
「・・・ふふっ、別に?何もないよ。……君は優しいね」

言いながらも、加地のまなざしはどこまでも、暗く。まるで深い闇の底を見つめているかのようで。
香穂子の胸のうちの不安は、大きくなるばかりだ。

「加地く・・・」
「…―――なんて、君の前で誤魔化しても無駄かな。……本当はね、今日聞いたんだ。金澤先生から、君の転科の話を」
「・・・あ」

確かに、その話は香穂子自身、最近になって金澤から持ちかけられた話題であった。


音楽科への転科。


今すぐという話ではない。
これからも音楽の道を考えるなら、それも一つの選択肢だと、そう言われ、香穂子自身の中でも、未だ決意の固まりきっていないことではあったのだが・・・。

まさか、加地の耳にも入っていたなんて。

「加地君、でも、それは・・・」
「うん、わかってる」

まだ決まったことではないと、そう言い募ろうとした香穂子を、まるで遮るかのように、加地は、言葉を続ける。

「・・・君ならきっと、音楽科へ転科しても上手くやっていける。君の音は、神から愛された音だ。その話を聞いたときにね、本当に心から応援したいと思った」
「・・・・・・」
「・・・けれど同時に、ひどく暗い感情が僕の中で芽生えるのを止められなかった。・・・音楽に愛された君。君の音は、これから、益々、必要とされていくだろう。それは喜ぶべきことだと、頭では、分かっている、分かっているけれど・・・」


言いながら。じわじわと、加地の言葉は、そのまま己自身を傷つけていた。


「・・・同時に、ひどく恐ろしくなってしまったんだ。君が、ますます僕の手の届かないところに行ってしまうことを」


それは、紛れもない、彼の、本音。


それに気づいた瞬間。
香穂子は、胸に、するどい痛みが走ったのを感じた。

・・・今まで、自分は彼の何を見ていたのだろう。
自分だけが、彼に不釣り合いな気がして、不安に思っていると、そう思っていた。

思い出す。
一緒にアンサンブルを組んでいたときの、彼の言葉を。

(―――君たちと、演奏するたびに、思い知るんだ。音楽の神に、愛された者と、そうでない者の差を。)

きっと、本当は、もうずっと前に知っていたはずなのに。
華やかな笑顔の裏に擬態された、彼の、ひどく繊細で、脆い心を。

「加地く・・・」
「・・・ね、香穂さん、羽衣伝説を知っているかな」

しかし、加地は、まるで香穂子の言葉が聞こえていないかのように。
歌うように、どこまでも、己を苛む言の葉を紡ぐことをやめようとしない。

「天女に焦がれた男の末路を知ってる?・・・天女に心を奪われた男は分不相応にも、彼女を自分のものにしたくて、その羽衣を隠して帰れなくしてしまうんだ。・・・けれど、天女はそれを見つけ、天に帰ってしまう。二度と、男の手の届かないところへ・・・。男は、天女を失った、身を切られるような痛みに深く後悔するけれど…けれど、気がついたときには、もう為す術はもう何もないんだ」
「……加地君!!」

見えない傷口から、じわじわと血を流し続ける加地を、これ以上見たくなくて、思わず両手で、ぴしゃりと勢いよく加地の頬をたたく。

「・・・かほ、さ・・・?」

夢から覚めたような目で、香穂子を見つめる加地を正面からひたと見据える。

「聞いて、加地君。・・・私も、加地君が私とつきあってくれてること、ときどき夢じゃないかと思うことがあるんだよ・・・?」
「そんな・・・!」
「だって、加地君は何でもできるし、格好いいし…。他校の子にだって、モテモテだし・・・。いつだって不安でいっぱいで。告白してくれたときも、どうして私なんか・・・って、本当は、そう、言いたかった・・・」
「香穂さん・・・、そんな、僕は…!」
「けど、ね」

言って、加地の手を取り、それをそっと己の頬に当てる。
ビクリと跳ね上がる、大きな、手のひら。
…大好きな人の、温もり。
触れた場所から、この想いが届くことを願って、ゆっくりと、噛み締めるように言葉を呟く。

「私は、加地君が好き。大好き・・・。これだけは、誰にも負けないし、譲れない、本当の気持ち」
「・・・っ・・!」

泣きそうに、加地の顔がゆがめられたこと思うと、次の瞬間、強い力で胸にかき抱かれる。
苦しい息の中で、それども精一杯想いが届くように、加地の背にそっと手を伸ばす。

「…ね、自分自身が信じられないと言うのなら、私を信じて。何度だって、伝えるから」

言葉にのせて。音色にのせて。

何度だって伝えよう。奏でよう。
彼が想ってくれているのと同じように、自分もまた。

彼を心から愛しく想っていることを。

「……………っ」

長い、長い、沈黙。
やがて、ゆっくりと。背に回っていた手の力が緩められ。

「…君には、本当にかなわないな・・・」

穏やかに、凪いだ声。
そろりと、香穂子の肩口に埋めていた顔を上げた加地の瞳には、もう暗い陰はなかった。

それが何より嬉しくて、香穂子の顔に、自然と華がこぼれ落ちるような笑顔が浮かんだ。
それを、眩しそうに目を細めながら、ゆっくりと、香穂子の頬に、加地の手が添えられる。

「・・・僕も約束するよ。僕が、君を好きだという想いは、この先一生変わらないことを。・・・僕の女神。君に逢えて、本当によかった」

言葉とともに、頬を撫でられ、くすぐったさに、目をつむると、唇に、ゆっくりと、柔らかな熱が落ちてくる。

―――まるで、それは厳かな、誓いのようで。


優しい口づけを受けながら、どこか遠くで。


懐かしく優しい、祝福の音色を聞いた、気がした―――。

| コルダSS | 01:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

『届く、音色』

 
夕闇差し迫る放課後の放課後の屋上。
抜けるような青空と、穏やかに通り抜ける風が心地よいこの場所は、昼間こそお弁当を広げる生徒達で賑わうものの、放課後になると意外な程人気がなくなる。

この絶好の練習スポットで、普通科からの音楽コンクール参加者である、日野 香穂子は、いよいよ来週にせまった最終セレクションへの調整のために、既に暗譜して久しい楽曲をさらっていた。

コンディションは上々。

しかし、細かい部分ではまだまだ荒い部分が目立つ。

他の参加者は、自分よりも経験も、技量も遙かに上をいっている。
悔しいけれど、それは紛れもない事実で。
だからこそ、他の参加者に恥じるような演奏だけはしたくないと、仕上がりに満足することなく、幾度となく調整し、弾きこんでいくうちに、ふと顔を上げると、そこには西の空に大きく傾いた太陽の姿があった。

(……もう、こんな時間か…。)

できればもう少し練習していきたかったけれど、学校に残ってよいのは、下校のチャイムが鳴るまでと定められている。

名残惜しい気持ちを抱えながらも、そろそろこえてくるであろう下校のチャイムの音に耳を澄ませていると、ふいに、微かな音色が香穂子の耳に届いた。

――ピアノの音だ。

ピクン、と弾かれたように顔を上げて、音色に耳を澄ませせた後、我ながら犬みたいな反応だな、と苦笑する。
コンクールに出るようになってから、随分と楽器の音に敏感に反応するようになった。
…中でも特に、ピアノの音に。
その理由を、自分でもしっかり自覚しているだけあって、聞こえてくる音色の主に思い当たった香穂子の顔が、分かりやすくパッと輝く。

「……土浦君?」

でもそれは、いつもの彼の演奏より、ひどく甘くて柔らかい気がして。
一瞬、別の誰かが弾いているのではないかという思いが過ぎったけれど、改めて耳を澄ませ、数小節メロディを聞いてみて、確信する。

「……うん、やっぱり土浦君の音だ」

包みこまれるような優しい音色に、何故だか思わず赤面する。
そうして演奏が終わるのを待って、そそくさとバイオリンを片付けると、屋上を飛び出した。目指すは、勿論練習室だ。

あわよくば、一緒に帰れるかもしれない。

予期せぬ嬉しいハプニングに、うきうきと心躍らせながらも香穂子は大急ぎで駆けていた。

そして、自己新記録の速さで辿り着いた練習室前。

いくつかの扉の前には、まだ「使用中」のプレートがかかっていた。

その中でも、彼がよく好んで使っている、グランドピアノを置いてある練習室の前にたつと、そっと耳を澄ませる。

・・・うん、間違いない。

確信すると、息を整えながら、その扉を躊躇いがちにノックする。すると、聞きなれた声で「どうぞ」と返ってきた。
そのことに、ほっと安堵の息をつくと

「お邪魔します…」

そろそろとドアを開く。
するとピアノの前に座っていたのは、モスグリーンの制服に身を包んだ、予想に違わぬ彼の姿で、自然と香穂子の顔に笑みが浮かぶ。
すると。

「やっぱり日野か」

開口一番。
苦笑交じりに漏らされた言葉に、香穂子はえ、と小首をかしげる。

「どうして分かったの?」

この練習室の扉に張られたガラスは、摺りガラスだ。
かろうじて透ける見える色彩で、普通科か音楽科の人物かは判別出来るかもしれないが、個人の特定までは難しい。
しかしそこまで考えて、はたと思い当たる。

「ああ。そっか!こんな所まで来る普通科の子って、私か天羽ちゃんくらいだもんね」

そしたら、後は2択だ。
しかも天羽がここを訪れる頻度は香穂子のそれと比べると圧倒的に少ないとなれば、答えは自ずと決まってくる。
成る程、だからかー。と一人で納得して完結しようとしている香穂子に、土浦は「まあ、それもあるがな」と苦笑して言葉を続ける。

「音が――。聞こえなくなったからさ」
「音?」
「ああ――…いや、やっぱり何でもない」
「土浦君?」
「分からないなら、いいんだ」

猶も聞き返す香穂子に「そろそろ帰るか」と曖昧に笑って、土浦は鍵盤の蓋をゆっくりと閉じた。
そうして長椅子から立ち上がると、開け放していた窓を閉めにかかる。

その様子をボンヤリ目で追いながら、ふと気づく。
窓を開けたまま、ピアノを弾くなんて。
練習中の音を人に聞かれるのをあまり好まない彼にしては、珍しい。
一体、どういった心境の変化だろう。
まあ、でも。

――――そのおかげで彼の音に気づいたから、こうして会えたんだけど。

改めて今回の嬉しいハプニングを思うと、自然と顔がにやける。
本人は気づいていないものの、傍から見るとどうにも締りのない表情、である。
しかし幸いなことに、背を向けて戸締りに勤しんでいる土浦がそれに気づくことはなく。

カチリ。

と。窓の錠の閉まる音に我に返った香穂子は、彼の隣に並んで慌てて手伝い始める。

「ごめん!私、練習の邪魔しちゃったよね。土浦君もコンクールの調整してたんじゃない?」
「いや。ただなんとなく。弾きたい曲を弾いてただけだったから」

だから気にするな、と言外に告げられて。
ポンポンと大きな手で頭を撫でられた。
すっかりお馴染みになった、彼の優しい仕草に、何だか嬉しくなって思わず顔に笑みが広がる。

「ありがと」

照れたように小さく呟けば、

「どういたしまして」

力強い微笑みが返ってくる。

そうして、ようやく。
いつの間にか最後の一つとなった窓の施錠を素早く終わらせると、香穂子はくるりと身を翻し、隣に立つ土浦を見上げた。

「そういえば、土浦君」
「何だ?」
「さっきさ、『愛の夢』弾いてたでしょ?リスト、だよね?」
「…っ」
「ね?」
「…ああ。よく分かったな」

どういうわけか、薄っすらと赤く頬を染めてそっぽを向いてしまった土浦には気付かず、上機嫌で香穂子は言葉を続ける。

「えへへ〜、吃驚した?こう見えてもね、日夜クラシック研究に勤しんでるんだよ!」

クラシックと言えば、小・中の音楽の時間に習ったものしか知らなかった香穂子は、そのことで以前、同じバイオリン弾きのライバルから、馬鹿にしたような、呆れたような。
そんなニュアンスをたっぷり含んだ溜息を貰った経験があった。

それは彼女にとって…なかなかに業が深かったようで。

もともと負けず嫌いな性格も手伝って、練習の暇を見ては、バイオリンの曲だけではなく、様々なクラシック音楽を聴くようになっていた。

今回、その成果が実を結んだ、というわけである。

「リストの『愛の夢』も何枚か、いろんなピアニストが弾いてるの聴いてみたんだけど、今日聞いた土浦君の解釈が一番好きだったよ」
「え…」
「何だかね、甘くて柔らかくて。全身が音で包まれるっていうのかな。いつもの土浦君の演奏とはちょっと違ってて、ドキドキし…」

すべて言い終わらぬうちに、左腕を強い力で引っ張られたかと思うと、彼の広い腕の中にすっぽりとおさまってしまっていた。
予期せぬ彼の行動に、心臓がトクリ、と大きく跳ねる。

「つ、土浦く…?」
「本当にお前は…」

上ずる香穂子の声を遮る様に。
ポツリと落とされた言葉は、何故だかひどく柔らかい響きで。
思わず香穂子は土浦を見上げ――…そうして、息を呑んだ。

なぜならそこにあったのは、互いの吐息が伝わるほど近い、彼の顔で。

驚いて、思わず後ろに下がろうとした身体は、それより一瞬早く伸びてきた彼の手に再びしっかり捕らえられる。

「…日野」

そうして耳元に、ポツリと落とされた言葉はひどく甘く。
今まで聴いた事のないほどの艶を含んでいて。
更にはそれと同時に一瞬、何か温かな感触がそこに触れた気がして。

「〜〜〜〜っっ!!!」

一拍の間の後。
咄嗟に香穂子は、勢いよく己の顔を両手で覆っていた。
頬が一気に熱をもつのが分かる。

砂糖菓子みたいに甘い声、甘い吐息。
そして――男の人の顔。
こんな土浦は知らない。
見たことがない。

――これは、一体誰?

完全に混乱状態におちいった香穂子の頭の中に、瞬時にして様々な思いがかけめぐる。
 
しかし、顔の火照りもさめやらぬ間に、顔を抑えていた自身の両手が、大きな手のひらによってそっと外されたかと思うと、そのまま彼の長い指が顎に添えられて。
優しく…でも抗えない強さを持って上を向かされる。

 
そうして再び交わる視線。


強く、射抜かれるような。
痛みにも似た、熱さえ感じるような。
その、眼差しは。
彼がピアノを弾くときのそれ――にひどく似ている気がして。


息の仕方を、忘れる。


すると、その瞬間を見計らっていたかのように土浦は、空いていたもう片方の手でするりと香穂子の頬をなぜると、殊更ゆっくりと口を開いた。

「――好きだ」

瞬間。
本気で、心臓が、止まるかと思った。

「…っ!」

それ以上彼の顔を直視出来なくて、顎を捉えられたまま、思わず視線を逸らす。

次いでドクドクと狂ったように刻み始める、鼓動。
一気に血が逆流して、全身が熱くなる。
泣きたくはないのに、目頭が熱くなる。

ああ、もう。
何てことだろう。

――――こんなの、絶対反則だ。

鏡を見ないでも分かる。
今自分の顔は、耳まで真っ赤になっているだろう。
喉元まで、すごく熱い。
気を抜くと泣いてしまいそうで、ぐっとこめかみに力を入れる。

「…こっち、向いてくれないか」

密やかな彼の声。
それは甘く、微かに掠れていて。
窓から聞こえる喧騒や、柔らかく吹き込む春風の心地よさも、どこか遠くの世界のことのようで。
――足元が、ふわふわする。

「日野」

焦れたようにもう一度。
至近距離で名を呼ばれて、香穂子は反射的に勢いよく首を横に振った。
一瞬遅れて、自らの長い髪が首元を柔らかく叩く。

自分でも、意味の分からない行動だと思う。
――けれど、どうしようもない。
あまりにも突然の出来事に、思考も体も、全く付いて行くことが出来ないのだ。
そんな香穂子に、そっと息を吐く彼の気配が伝わった。

「じゃあ、そのままでもいいから。返事、聞かせてくれないか?」

いつもの彼らしくない、おもねるような響きに、胸が締め付けられる。

だけどそれに答えることは、いろんなことが一気に押し寄せてしまって、いっぱいいっぱいの香穂子には、どうしたって不可能で。
ただ、きつく目を瞑ることで、どうにかこの激しい感情をやり過ごすよう、努めることしか出来ない。
 
そうして結果的に、その場を支配するのは―――重い沈黙。

その意味を、彼は別の意味に誤解したらしい。
小さく、息の吐き出される音がしたかと思うと。

「…わかった」

低く、押し殺された声が頭上から落ちてきた。
ポン、と柔らかく頭を撫でられて。

「…悪かったな。困らせて」

いたわる様な優しい口調は、常の彼のまま。
けれど、その響きは別人のようにひどく弱々しくて。
今更ながらに、自分が彼をひどく傷つけてしまったことを香穂子は知った。

何か言わなくては、と思うも唇はただ微かに震えるだけで、明確な音を紡ぐことが出来ない。

そうしてそのまま、包まれていた温もりが離れて。
背を向けて、立ち去っていこうとする彼の気配を感じた。

――待って。
――違う、そうじゃない。

伝えたい言葉も、ただ空気となって空しく漏れるだけで。
もどかしさに、唇を噛む。

――このままじゃ、彼が行ってしまう。
――もう二度と、手の届かない遠いところへ。

嫌だ。
そんなのは、耐えられない。

そうして。
気がついたときには。
弾かれるように、その背中へと駆け寄って。
震える両手で、彼のブレザーの裾を握り締めていた。

「・・・す・・・き・・・」

――お願い、どうか伝わって。
――喉の奥がひりついて、言葉が出なくなるくらい。
――こんなにも、こんなにもあなたが好きだってこと。
――同じ気持ちで、死ぬほど嬉しいってこと。

――お願い。

それは、がむしゃらで。
余裕なんてカケラもない。

けれど、精一杯の。
香穂子なりの、告白のカタチ。

それは決して強い力ではなかったけれど。
彼は確かに立ち止まってくれて。
そして。

「サンキュ…」

ひどく掠れた声で、呟きが落とされて。
次の瞬間。
息も出来ないほどの力で、強く抱き締められる。

そうしてゆっくりと落ちてきた温かな唇の熱に。
香穂子の目から涙が一筋、零れ落ちて。
やがて。

幸せな熱に混じって、溶けていった――――。

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